この投稿は少し長くなるかもしれない・・・。
Gunオヤジは外資系大手IT企業に勤務している。30年ほど前に営業職として入社した。
菊田さんはGunオヤジが配属された営業統括本部内部の事務方の人だった。いつもニコニコしてどちらかと言えば少しのんびりしている感じの人だった。
ある年、営業部の業績が非常に良く報奨金が出たことあった。「公平に分ける」ということだったが、頭割りが公平だと言う人、売上成績比例が公平だと言う人、年収比例が公平だと言う人が出て、結局「みんなでグアム旅行へ行く原資としよう」ということになった。
そしてどうせ呼んでも来ないだろうからとシステム・エンジニアやスタッフにも声をかけたら、予想を超えた数の参加者があったという出来事があった。
そのグアム旅行に菊田さんも参加されていた。現地では小グループに分かれて行動したのだが、特段ゴルフなどの目的が無かった私達は現地ボランティアがやっているプライベート・ビーチ・ツアーに参加した。
菊田さんは海で大きな波に巻き込まれ海中にメガネを落とした。数秒後物凄い奇跡で20メートルぐらい離れていた私の左足首にそのメガネが引っかかった。菊田さんは数年経ってもそのことを忘れることなく、いつまでも感謝してくれていた。
その菊田さんが何年か後に関連会社へ出向になった。コンピューター展示会などのイベントでお会いするたび「飲みに来い」と誘われた。どうもそれなりに接待費を持っていたらしい。
でも、真面目で社歴の浅かったGunオヤジはそんな時間すら取れなかった。
次に菊田さんとご縁ができたのは私が本社広報に異動して社長専属広報員になった時だ。菊田さんは秘書室長をされていた。Gunオヤジは広報所属だったが秘書室出向みたい形だった。
上司である広報部長とGunオヤジの折り合いは良くなかった。他にも性格の悪い先輩もいて広報という部門は性に合わないと思った。不協和音が響き渡り結局広報にいたのは2000年から2003年までの3年半だったが、後半は上司からリストラ対象としていじめ抜かれた。
あまりの陰湿さに会社を辞めようと思い、秘書室長だった菊田さんにご挨拶にいった。
菊田さんはGunオヤジの顔を見るなり何かを察したのか「今は会社もとても厳しい時、たくさんのリストラをしなくてはいけない。でも、君は辞めるべき人間じゃないよ」と言われた。菊田さんのアドバイス通りに怒らずにしぶとく耐え続けた。
でも守りだけでは面白くない。そこでGunオヤジは社内に少林寺拳法部を立ち上げることにした。今度はその報告に行くと「僕は何をすればいいの?」と聞かれるので「顧問をお願いします」。「いいよ」実に簡単に引き受けてくれた。
そのうち、菊田さんがお客様エグゼクティブ研修のインストラクターという異動先を見つけてくれた。伝統ある凄く良い部門だ。
異動先の部門責任者は菊田さんの後輩にあたり、菊田さんの信用でいともあっさりGunオヤジを引き受けてくださった。この時のキャリアはその後のGunオヤジの会社生活にも人生にも大きく役立っている。
菊田さんはのんびりしているようだが、実は秘書室長生活の心労でうつ病を患ってらっしゃった。
定年を迎えてすぐの頃、奥様を亡くされた。自宅で火災が起き、奥様は飼い猫を救うため何度も火の中に入り有毒ガスを吸ってなくなられたと電話口で事情をお伺いした。
本好きの菊田さんは凄い蔵書があるとよく言われていた。中には有名なハードボイルド作家が 売れる前に小遣い稼ぎで書いたエロ小説もあるという。なんでも幼馴染で「菊田、お前も大変だろ」とくれたものらしい。火事で蔵書が喪失したあとGunオヤジは「また集めればいいじゃないですか」と軽く言ってしまった。「いや、あれだけ集めるのは大変だし、もうその気力もないよ」と電話口で言われていた。返す言葉がなかった。
奥様が亡くなられて1年もしないうちに菊田さんがお亡くなりになったと聞いた。おそらくメールで連絡をいただいたと思うが、誰からのメールだったかさえ覚えていないほど動揺した。Gunオヤジは自席に座ったまま涙を流し続けた。
少林寺拳法部の忘年会の最中にわざわざ「参加できくて申し訳ない。みんなで楽しんでくれ」と電話をいただいたこともある。
お嬢様が1人いらっしゃるとは聞いていたが、息子さんはいなかった。もしかしたらGunオヤジのことを出来の悪い息子ぐらいに思っていてくれたのかもしれない。
そういえば「細野がYMOを始める前に誘われたことがある」とも言われていた。「菊田さん、楽器を演奏されるのですか」と聞くと「いや俺は楽器はだめだ、作詞を頼まれたんだよ」と笑いながら言っていた。人脈が広く、懐の広い人だった。
健康の理由でGunオヤジは60歳までこの会社に勤められるか分からないが、入社から32年経つ今に至るまでなんとかこの会社で生きてこられてたのは菊田さんのお陰だと思っている。菊田さんがいなかったらGunオヤジはもっと早くに会社を辞めていただろうと思う。
その御恩を直接菊田さんに返せなかったのはGunオヤジの未熟の至りとしか言えない。今は新人研修のインストラクターなので1人1人の成功のために尽くすことで菊田さんへの御恩をお返ししたいと思っている。もしGunオヤジが満足度の高い研修を提供できていたとしたら、菊田さんの功績だと言える。
菊田さんはあまり量は飲めなかったが通のお店で飲むのが好きだった。よく誘っていただいた。
Gunオヤジがウイスキーを好きなのは菊田さんの影響が大きいのかもしれない。
当時の記録を「バーフライが行く」というタイトルでネット上に残しておいたが、今では検索エンジンにも引っ掛からなくなってきた。やがてアップした写真情報が壊れたり、サーバーが止まって消えて行くのだろうと思うが、あえて風化に任せたいと思う。
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