人は意識的に無意識になれない

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ガン随筆

座禅は無意識の領域に入ることで悟りを得る修行だと漠然と思っている・・・が、ではどうやって無意識の境地へと行くのか。

無意識になろうとしても、なかなか無意識にはなれない。
ではどうやったら無意識になれるのか。いくつかの体験をもとに考えてみる。

今まで無意識になった経験はあるけど、無意識といっても気を失っているわけではなかった。むしろ極度に集中している時が無意識っぽい感覚になっていた。
例えば、何時間も絵を描き続けていた時。例えば武道の乱稽古でギリギリの間合いに立って相手に攻撃を読んでいるとき。例えば何時間も御神輿を担ぎ続けていた時・・・が、無意識だったのではないかという気がする。
私が唯一お神輿を担いだのは富岡八幡宮の例大祭だった。暑い中、大音響の中、単純な重労働を何時間も繰り返す。そのうち非常に気持ち良い陶酔の中に陥る。

そこから考えると、たった一つのことだけに集中した時、気がつけば無意識だったという状況になっていたと考えられる。いわゆるトランス状態と呼ばれるものかもしれない。
無意識になるために意識を集中させる。皮肉な人間の仕組みだと思う。

しかもそもそも私は悟りの境地が分かっていない。どんな状態を持って「悟り」というのだろうか。
毎日色々なことを考えて迷いだらけの人生、私には一生「悟り」の境地は分からないかもしれない。

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